【ARCHIVE】トリイカ#35「プレゼン」(2013年9月 日経ビジネスオンライン)

2021年07月14日

小田嶋さんの「ア・ピース・オブ・警句」が月曜に更新されていたので驚いた。

というわけで東京五輪招致が成功してしまったので、なにか書かねばの娘になっている。まあ、なんというか、このニュース、コラムの切り口としては、いくらでもあるように見える。

純粋にスポーツ観戦の立場から。

そもそも賛成なのか反対なのか。

経済効果はほんとうにあるのか。

福島汚染水の問題。

招致成功を国民総意の慶事のように扱うメディアへの違和感。

都内でこれから起こりうるさまざまな影響や規制への懸念......。etc.

こちらのフィールドに引き込んだオタクネタだけにしぼっても『ウルトラQ/2020年の挑戦』のケムール人、震災後の湾岸復興がバックボーンの『機動警察パトレイバー』、そしてまさに2020年東京オリンピックを描いている『AKIRA』、と材料には事欠かない。

だが、語るべきことが多すぎる出来事というのは、かえって論点や視点がぼやけてしまう。そもそもマンガ家が経済問題などをしたり顔で語っても誰も信用しない。今回は思い切って他の一切を切り捨て、一介の唐草男の分際にふさわしい、プレゼンを見ているときに感じた謎のモヤモヤにしぼって書くことにする。

そう、最終プレゼンを深夜のテレビで見ていた私は、その間中、得体の知れない違和感に包まれ、全力でモヤモヤしていた。

「TOKYO」の名がなんのタメもなく無表情の高い声でコールされた瞬間、そのモヤモヤはさらにブーストし、第二モヤモヤ速度を突破してモヤモヤ宇宙の彼方に飛び去っていった。

同時に激しい落胆と、続いてある種の諦念みたいな気持ちが襲ってきた。

ここで早めに断っておきたいのは、その落胆と諦念は「オリンピックが東京に決まったこと」に由来するものではない、ということだ。

私は、はっきりいって「いまさら夏の暑い東京で開催なんかしなくていい」と思っていた側の一人だ。しかし、同時に生のスポーツ観戦はかなり好きであるし、東京への決定を呪詛の言葉とともに全否定するほどのマイナスの熱意はない。やれば観るだろう。

ひどくがっかりしたのは、つまりプレゼンを見ていたときに感じていたモヤモヤが「まんまと成功してしまった」という、そのことに対してだ。

だが、そのモヤモヤの正体は、まさに「成功してしまったがゆえ」に、なかなかリアルタイムでは自分でも見極められないでいた。なんだか気持ち悪い違和感がずっとその日の昼間まで続いていたが、やがてこれは『トラ・トラ・トラ!』に対する『ミッドウェイ』や『パール・ハーバー』のようなものだな、と思い至った。

あるいはまた、アメリカン・ドリームを成し遂げた鉄板焼きチェーンのパフォーマンスとか、テリヤキソースの人(ご苦労はあったろうが)のCMとか、プリンセス・テンコー・ショーを眼にするときの、あの、いたたまれない気持ち。

ここでまた申し訳ないが、例によって話は古くなる。

太陽の塔の眼に人が登ったり降りたりしていた頃の話だ。

既に映画館やテレビの映画劇場で「洋画」という娯楽に接していた私は、そこに登場する日本人、あるいは日本の描写の奇妙さが気になっていた。

要するに、ゲイシャ・キモノ・サムライ・ハラキリ・ニンジャ・スキヤキ・オジギ・カラテ・リキシャ・コンヨク......などという言葉に象徴される、あの古い時代のステロタイプの日本人観だ。もちろん街には朱塗りの欄干や灯籠や鳥居が不自然に乱立している。全体として縦軸的には時代劇の中の日本と現代のエコノミック・アニマル的な日本が、また横軸的には中国〜東南アジア〜琉球〜日本の風俗が混然一体となったエキゾチック・ワールド。

筒井康隆は既に『色眼鏡の狂詩曲』で皮肉混じりにこうした誤解された日本を描いていたが、当時の私は子供をやっていたのでまだこの傑作は知らず、もっぱら少年マガジンばかり読んでいた。

マガジンの巻頭には大伴昌司が構成を担当したグラビアページが載っており、70年のある号で「もうひとつの日本」と題された特集が組まれた。外国の教科書や映画に登場する、誤解だらけで奇妙な日本の写真や図版の特集だ。外務省とJETRO(日本貿易振興機構)が協力に名を連ねていた。※1970年22号

大伴のグラビアには名作が幾つもあるが、なかでもこの特集にはショックを受け、のちのちまで私の作品にも多大な影響を及ぼした。図版はデッパでツリ目でメガネ顔の醜悪な日本人が並んでいてひじょうに不愉快ではあったが、しかし、世界の人の頭の中には、我々が住んでいる日本とはまったく別の不思議な日本が確かにあり、それはあからさまな間違いというより、自分達の嫌な部分のデフォルメやカリカチュアであるからこそ不快なのだ、という認識もそのときに得た。外国人の視点で見る歪んだ日本は、実はちょっと面白くもあったのだ。

そういう昔のハリウッド映画の中の「おかしな日本」は、最初は本当の誤解や偏見から来ていたのだろうと思う。だが8月の当コラムでも述べた、同じ1970年公開の『トラ・トラ・トラ!』あたりからは少々様相が変わってきた気がするのだ。

ご承知のように、この映画では日本側のエピソードは日本人脚本家が書いて日本人スタッフと日本人俳優によって撮影されている。ゆえに描写には誤りが少ない。『史上最大の作戦』で連合軍を英米のスタッフが、ドイツ軍をドイツの映画スタッフが撮って成功したのを踏まえての方式だったはずだが、少なくとも70年頃には、ハリウッド映画ではあっても、創り手によってはそういうところまで意識は進んでいたのだといえる。

だが、『トラ・トラ・トラ!』は日本人の観客は溜飲を下げたが、米国での興行成績はふるわなかった、と伝えられている。これをふまえた76年の『ミッドウェイ』では、ミフネ以外は日系人俳優で構成され艦載機の塗装もいいかげんな日本海軍が登場したが、しかしこちらの映画はヒットした。

この辺を境に、どうやら向こうも現代の日本の実態はよくわかってはいるけれども、欧米の観客へのウケを考えて「あえて」カリカチュアしたヘンな日本を登場させているフシがある......というのがわかってきた。

いっぽう日本は日本で、経済成長から来る自信からか、かつては憤っていたハリウッドの「おかしな日本」の描写を、面白おかしく笑えるくらいの心のゆとりが出来てきていた。

たとえばYMOは、そういう誤解されたアジアのエキゾチック・イメージを逆手にとって世界に出ていった。日本人だか中国人だかよくわからない謎の東洋人音楽集団。

少年マガジンのグラビアから17年後、1987年の「スタジオ・ボイス」2月号「特集へんなにっぽん」では「国辱ムービーズ・グラフィティ」と称して、やはりハリウッド映画の中のおかしな日本描写を紹介している。

70年代末から80年代は、SF映画で未来風景として日本のアイテムや建築が多用された時代でもある(『惑星ソラリス』『ブレードランナー』)。サムライ・ゲイシャに加えて「最新テクノロジー」が新たなイメージに加わり、かつての蔑み的な視点は減って、同じ誤解でも、どちらかといえば本邦の自尊心をくすぐるような描写も増えていった。そうした時代背景を受けて、ここでの解説文面にも「国辱映画」を笑い飛ばす余裕が見える。ちなみにテキスト担当は町山智浩氏。

近年、日本人俳優が出演したり、日本ロケを行うハリウッド映画は増え、日本がそれらの映画の大きな市場であることも意識してか、あからさまにおかしな描写は減ってきたが、それでも映画の中と現実の日本及び日本人のギャップには、モヤモヤ感をいまだに禁じ得ない。

というか、ギャップが誰が見てもあからさまな時代にははっきり怒ったり笑ったりできたが、微妙な感じになった分、よけいにそれはモヤモヤしてしまうのだ。最近の映画の日本人は必要以上にかっこよくなりすぎており、ハゲメガネチビデッパのおっさんもかまわないのでもう少し出してください、と逆に思ってしまう。

お気づきの通り二段前からやっと「モヤモヤ」という言葉が出てきている。

そう、今回のプレゼンで、斜め45°のキャスターが平仮名5文字の後にとった、両手を合わせるポーズ。あれはハリウッド映画の日本人だ。現実にはいないが、外国人の脳内にいる「もうひとつの日本」の中の日本人。

我々は仏壇や墓や遺体の前に位置したとき、あるいは譲歩して(譲歩という言葉の使い方をまちがっています)食事をいただく前には手を合わせたりするが、そうひんぱんに生きている目の前の人に対して挨拶の意味であのようなポーズはとらない。「ごめんして」と謝るときくらいだ。

でも日本人をそう描いてきた映画の影響か、来日したミュージシャンや俳優はよくやりますよね。

そういえば東京でのIOC視察団を迎えた晩餐会で行われた歓迎パフォーマンスも「ニンジャ」をイメージしたものだった。

ことはそうしたあざといオリエンタリズムに限らない。

招致のプレゼンに登場した各人のオーバーなジェスチャーや、感情過多の抑揚や、喜色満面の笑顔による外国語のスピーチは、現実の日本人からはもっとも遠くにあるものだった。こんなショーウィーな日本人は街中にはいない。私には極めて異様に映った。北朝鮮のニュース映像を見ているのかと思ったくらいだ。

これらのスピーチには、オリンピック請負人と呼ばれるコンサルタントの教育的指導があった、と報じられている。なんとなく、ミス・ユニヴァースのトレーニングを想い出すが、世界一の広告代理店のスカウティングやリサーチもそこには入っているのだろう。

結論を述べれば、最初のモヤモヤ感は「外国人が作った、外国人にウケる"日本人像"を全力でトレースしている日本人達」への違和感に起因していたのだった。

かつてのYMOには諧謔があったが、ここにはそれがない。あるのはおもねりだ。というか、みんなマジだ。

唯一、皇族のスピーチだけが安心して見ていられたのは、つまりそれが付け焼き刃でなく、ふだんからそういう機会が多く板についておいでになるからだろう。

反対に痛々しかったのが知事だった。

我々はこの人のふだんの品のない仏頂面や無愛想をよく知っている。しかも、おそらく彼は、なまじの教養やプライドが邪魔をして、こうした外国人におもねるような「演技」のトレーニングを登壇者の中ではもっとも嫌っていて、それでも招致のために無理をしてやっている。

そのことによる自己軋轢はここ数日間の知事の表情......というよりは人相の変化に如実に現れていた、と思う。セレモニー直後のニュース番組への出演では、まるっきりなにを喋っているのか意味不明の受け答えをしていた。

なんとしても招致成功を彼岸、いや悲願とする向きには「そういう豊かな表現こそが日本人に足りなかった部分で、それゆえに前回失敗したのだから、注力するのはあたりまえだろう」といわれるかもしれない。事実、ワイドショーや報道番組の伝え方も「作戦成功」を褒め称えるといった様相になっている。

確かにビジネスのストラテジーとしてはまちがっていないのだろう。

だが、この姿勢やおもねりはどことなく、当コラムでもとりマリ対談でも言及している、あのクールジャパン戦略の残念感に通じるものがある。実態と外づらの乖離。

妃殿下のスピーチは確かにすばらしかったが、皇族や被災アスリートを含めたプレゼンの人選もまた代理店の戦略にのっとったものと考えると、やはりモヤモヤ感は残ってしまう。美術品や景勝に感動しても、その出口の所でみやげ物売場を通過するときに商業戦略を再認識するような、そんな気分だ。

そして、繰り返すが、さらにモヤモヤするのは、それがまんまと成功してしまった、という点にある。

「勝ったのは我々ではない。ハリウッド映画の中の日本人だ」と私は思った。落胆と諦念といったのは、そういう意味だ。上の例えでいえば、そう思いつつもみやげ物はやっぱり買ってしまう、あの負けた感......。

だが......よくよく考えてみれば相手も海千山千のIOC委員だ。日本人の付け焼き刃的な演技に完全に「だまされた」わけではないのかもしれない。むしろ、この、少々ヘンだけど「決められたことをマニュアル通り一糸乱れずにやり遂げられる」日本人の同調能力もまた、オリンピックの「実行力」に繋がると評価したのではないか。そう考えれば少しは合点がいく。

そして7年後、きっと我々は街中で見るような気がする。

それまで、そんなことはしなかった日本人達が、外国人の観戦ツアーや取材メディアに対して、喜んであの平仮名5文字を口にしながら手を合わせて拝んでいる姿を。