手洗い

うちは診察用のベッドが1個しかない田舎の開業医だった。家は木造、しかも借家。当然、診察室と家族の住む部屋は同じ屋根の下でごく短い廊下で繋がっていた。

父親はやや過剰に消毒や手洗いをして、外来と居住空間の間を往き来していた。診察室だけでなく、トイレに行く前にも手を洗い、もちろん用を足した後はその何倍も厳重に洗っていた。そして自分含む家族は、そのさまを時には神経質すぎるとからかったりもしていた。

今回のコロナほどではないにしろ、長い年月の間には幾つもの感染症の流行があっただろう。結果的には閉院まで外来から何かの病気が家族にもたらされることはなく、跡を継がず医学や医療を学ばなかった自分はそれをごく近年まで当たり前のことと思っていた。下手すると「ほら、やっぱり神経質すぎたんだよ親父は」くらいに考えていたかもしれない。

今ならそれは彼の細心の注意のおかげだったとわかる。

最前線で感染の危険にさらされながら治療に当たっている全ての医療従事者に感謝する。同時に彼らは超人ではない。市井の一労働者だ。過酷な労働環境に見合う充分な補償がなされんことを。