2017年2月14日火曜日

あのおじさんのこと

5巻目が発売され5日目となりました。楽しんでいただけてるでしょうか。

さて、この巻にはポンペイの造営委員としてなんだかどこかで見たことのあるおじさんが出てきます。これをめぐって「こういうのは苦手」とする感想(多くはありません。むしろ数でいえばありがたくも好評の感想のほうが多いです)を目にし、色々考えるところがありました。

もちろん、すべての作品、すべてのマンガは出版された時点で、お金を出して読んでくれたり見てくれたりした人がどういう感想を持とうと、また発表しようと自由です。僕も「ああ、そういう風に受け取る人もいるのだなあ」とは思いましたが、その人の考えや受け取りかたを否定するものではありません。むしろ、自分とは違う考え方や感じ方の意見に色々教えられることも多い。反論というよりは、これはマンガ表現というものを考えるよいきっかけだと思ったので(短めのツイートもしたのですが)以下にもう少し詳しくまとめて見る気になりました。

まず、どう思われようが、作者としては、マンガとして発表しているものが表現を色々考えた末の結論で、そこに迷いはありません。後で書きますが1巻目からの世界観にブレもありません。

この風呂場のおじさんのシークエンスも、5巻目ではとても気に入っている場面の一つです。ヤマザキさんの描く人物の憎々しげな表情がまた巧いですね。二人の絵を合成する作業中も僕は大喜びしていました。

これは別にあらためての言挙げでなく、以前から色んな所で言ったり書いたりしていることですが、マンガ家としての僕の基本スタンスは「森羅万象すべてマンガのネタ」です。ストーリーマンガであってもギャグマンガであっても区別はありません。何を見てもそれがマンガのネタにならないかどうかばかり考えて世界を眺めています。

ちょうどプリニウスの博物誌が、地理歴史から自然科学からトンデモっぽい伝説から街のくだらないゴシップまで、森羅万象を貴賤なく等価に羅列してあるように。

そして森羅万象の中には当然、ONE OF THEMとして政治などの時事問題も含まれます。

実をいえば僕はことさら政治的な発言をするマンガ家ではありません。むしろめったにしないほうでしょう。しかし、他分野のネタならOKなのに、政治問題をネタにしたり、風刺的な表現をしたとたん引いてしまう人が多いいまの世の中の風潮には疑問を感じています。

床屋政談の類であっても、昔は政治の話はもっと身近なものでした。好きな番組やタレントの話をするのと同じように、少々いい加減であっても政局の話や政治家批判を、左右関係なくノンポリな町のおじさんがしていたものです(もちろん、そういう話「しか」しない人は昔もうざがられていましたが)。そして、そういう少々不正確ながら正直な実感で語る勢いだけの政治観にもある種の真実はありました。

芸能でも「ものまね」の定番は政治家でした。政治問題に特化したザ・ニュースペーパーを除いては、いまはあまり誰も政治家のモノマネをやりませんね。安倍さんとかマネしやすい喋りだし、安倍さんの喋りで『けものフレンズ』をやるとか面白そうですけど……片方に興味のある人は片方には興味を示さない(むしろ敬遠する)という感じなのかな。

話がそれましたが、政治をネタにするときは、もちろん政治的悪意を持ってネタにしているわけです。僕はナンセンスなギャグこそ信条で風刺をその上位には置きませんが、しかし政治ネタをやるときは「単に面白いと思ったから」「キャラを借りただけ」「たまたま似てるだけ」などという無難な逃げはしたくありません。

ドラマでも小説でも「この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません」というエクスキューズがよく掲げられますが、あんな欺瞞に満ちた言葉はない。そうしたものと一切関係のないフィクションなどありえないからです。

5巻目でもけっしてストーリーとも政治とも無関係に彼の顔を使ったわけではありません。ポンペイにエウマキアという女性実力者がいたのは事実であり、彼女が感じたであろう圧力や軋轢は、なんと2000年経った今日もまだ現存しているのだ、という意図のもとに、それをもっとも体現するアイコンとして作者は確信犯的に彼を使ったのです。この辺のセンスはヤマザキさんの真骨頂ですし、共作者の僕も大いに賛同して決定したアイデアです。

さて、政治が苦手ということとはまた別に、メタなネタ、アップ・トゥ・デイトなネタを作品中に放り込むことへの違和感を感じる方もおられるかもしれません。作品の「位相」の問題ですね。

しかし、もともと『プリニウス』は博物誌の精神に則り「なんでもあり」のマンガなのです。よく読んでくれてる人にはわざわざ説明しなくてもおわかりだと思いますが、実はこうしたお遊びは1巻目から随所にちりばめられています(具体的に作者が示すのはあまりに無粋なので自分で見つけてください。一部はあとがき対談でも触れています)。

それを興醒めと思う人もいるかもしれないけど、作者二人……とくに僕は元々そういう作風であり、それがマンガのいちばん自由で面白いところだと昔から考えています。

『プリニウス』はやたら絵が細かいのでリアル指向のマンガと思われているふしがありますが、僕らがめざしているのは表現がもっと自由だった頃のマンガです。手塚治虫や水木しげるもこういうお遊びはたくさんやっていました。時事ネタや実在人物も風刺的によく登場させていました。

たとえば僕がもっとも好きな手塚作品である『火の鳥 鳳凰篇』には、作中にいきなりピストルやねずみ男や万博マークが出てきます。でもそうしたお遊びが作品のテーマやドラマツルギーや感動を邪魔したり壊したりするかというと、まったくそういうことはありませんでした。むしろ緩急のリズムをつけるのに効果的ですらあったのです。

もちろんマンガはその頃からだいぶ進化しました。リアリティの部分はとくに。シリアスなマンガは絵もドラマもどんどんシリアスになっていって、作品世界が別の位相と交わることを許さなくなっていきました。そうしたメタなお遊びも禁じ手になり、フィクションはフィクションとして完結させることがよしとされるようになりました。

けれど、僕はマンガのいちばん自由で面白いところは、実はそこなのではないか? と前々から思っているのです。なぜなら、そういう部分こそが、映画やドラマ(もっといえばアニメであっても)などの他メディアに簡単にトランスレートできないマンガならではの表現の一つだからです。

とまあ、色々書きましたが、別に激しく憤っているわけではありません。昔は自分のマンガ作品に文章のエクスキューズをつけるのは潔くないと考え、あまりこうしたことを好みませんでした。昔からの自分の読者なら、上に書いたようなことはいわずもがなで先刻承知してくれていると考えていたからです。

しかし『プリニウス』の場合は合作ですし、しかも、ありがたいことに多くの若い読者、新しい読者の方が読んでくれています。そうした方々に向けてこの一文は書きました。こんなところも「なんかちょっと変なノリのマンガで面白い」と思っていただければ、書いたかいがあるというものです。

それにしても、あれを描いたときにはまだ選挙運動中で、当時はまさか本当に彼がプレジデントになるとは二人とも思ってもみなかったのでした。もう少し気軽な気持ちで描いていたのですが、結果的にあとから大きな意味が付加されてしまったな、とは思います。いや、あとがきでも語っているように描いたから当選してしまったのかも……。

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