2013年3月4日月曜日

青春の怒りとカネ

前回の「とりみきのトリイカ!」のエントリー「青春の怒りとカネ」(ちなみに毎回のタイトルは編集部がつけております)だが、書いたほうも驚くくらいの反響があった。

こういうのは分母が大きければ大きいほど、誤読や反対意見もまた増えるものだが、反応を見ると、こちらが危惧していたよりずっと多くの方に真意が伝わっているようで、それにもまた少しく驚いている最中だ。

だが日経BOLの更新時刻はパンクチュアルで締切厳守なので、間に合わせるためちょっと書き足りなかったこともある。誤解をさらに少なくする意味でもここで少し補足しておこう。

そもそも、ヤマザキマリさんの100万円発言だが、番組を見ずにWEB上のスレタイだけ見て、あたかも彼女が「58億円も稼いだ映画なのに100万円とは少なすぎる。理不尽だ」と言ったかのように思われているようなのが、こちらの義憤のスタートだった。

彼女の発言内容をちゃんと追えば、その真意が


●(テルマエに限らず)映画がいくら稼ごうが、原作料は事前に、多くの場合、固定額で決められている。そういう出版社との契約になっている。


●だが、世間の人はそう思ってはいないので、映画のヒットで家族まであらぬ金銭面の誤解をされて困っている


という「世間の誤解を正す」点にあったことがわかる。

映画というのはかなりリスキーなビジネスなので、大コケになることも制作費を回収できないこともある。その場合、100万円(映画ごとに違うでしょうが)という固定額は、原作者にとっては、逆にある一定の保証になるケースもあるわけだ。

だが、テレビというのはテロップなどで耳目を引く言葉だけ強調したり、発言を編集したりするので、今度は逆のベクトルの誤解が蔓延することになった。

つまり、スレッドやツイートの反応を見ていると、ヤマザキさんを支持するファンの書き込みも「100万円は少なすぎる。○○はもっと払うべき(○○は出版社や映画制作のテレビ局)」という論調が多くなってしまった。これはこれでヤマザキさんのいいたいことと、少しずれてきてしまっている。


そういう契約になっている以上、現在の金額に不満があるわけではないのだ。ただし
彼女は

●こうした映像化や、契約額の決定権は出版社側に委ねられているが、過去の慣例ばかり強調され、作者に対してあまりにも説明不足である(と彼女は感じている)

ことには疑問を呈している。日本では編集者と作家の代理人的立場が混在しているからだ。

この件に、僕は自分の体験に照らし合わせたシンパシーを感じ、四半世紀前の自分のケースを得にもならないのに披露した、というわけだ。もちろん僕のケースはヤマザキさんのケースと同じではない(だろう)ことには、留意されたい。

この二つの主張がごっちゃになってあらぬ誤解を生んでいるように、僕には見える。作者自身が番組のせいにしたり、出演を弁解していないのは潔いが、率直にいって彼女が出演した番組は、こうしたデリケートな問題を提起するのには、あまり向いてなかった、と思う。

編集のマンガ家に対する幻想(=愛)が強すぎても、マンガ家の編集者に対する幻想が強すぎても、バランスが崩れると、結局は両者とも傷つき不幸になる。

本文にも書いたが、テルマエの担当氏は、編集者として、僕も含めて現在も多くのマンガ家から信頼されている好人物である(それはヤマザキさんも同じで、試しに今月号のパピルスに彼女が書いたエッセイを読んでみるといい)。だから今回の騒ぎが誤った方向に拡散するのはとても哀しい。

長年の日本の出版社の慣習から、マンガ家の代理人的立場をも兼任してきた編集側は、悪意や搾取どころか、自分達は「マンガ家のために」と思いこんでやっている部分も多いと思う。だから今回のようなことがあると「なぜ」「裏切られた」と感じるかもしれない。当事者じゃなくとも。

しかし、現実には、多くのマンガ家が同じ問題で同じような精神的苦痛を感じていたことが、僕のコラムやヤマザキさんのツイートの、同業者によるリツイートや同意表明の多さでわかる。僕ですら想像以上なほどだった。マンガ家は編集とはマンガの作品作りのことだけを話し合いたいのだ。 


それがお互いになかなか理解されないことが、さらに哀しさを増す結果になっているし、そこに、この問題の根深さとむずかしさがある。そしてそれは、けっして特定の出版社に限った話ではないのだ。


こちらも参考のこと→ヤマザキマリさんの弁護士である四宮隆史さんの公式コメント

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